6/24四目屋に行ってみた

今回更新した新婚鯉登夫婦「柿の実、ひとつ」の続きで書いたお話について。

久しぶりの🔞だから今まで書いたことないシチュにしよう思い、大人のおもちゃって明治時代にあったのか?と疑問に思い、調べたのが始まり。

なんと、あった!その名も【四目屋】!しかも江戸時代創業で店舗は現在の中央区東日本橋にあったらしい。というわけで、大人のおもちゃネタは時代的におかしくないことが分かり、ぽちぽち書き始めたのが今年2月。元々は4月鯉登夢WEBオンリーで展示予定だったけど、途中でアンソロ原稿に取りかかったので間に合わず。5月頃に再開し、7月半ばに完成した。

 

お話の時系列は19111月頃。

鯉登君が三越でお買い物をした後、四目屋までどんなルートで行けるのか?

まずは今回のお話で出てきた地名や場所について、調べたことや考えたことをまとめてみた。(素人調べなので間違ってる部分もあると思う)

【両国の地名について】

今回のお話に出てくる「両国」の名称は現在の中央区を指している。

明治時代になると中央区側は「日本橋両国」・墨田区側は「本所東両国」と呼ばれるようになり、1934年に地名の変更で現在の東日本橋二丁目の一部が日本橋両国になった。

 

参照元:墨田区「両国」から離れた中央区になぜか両国郵便局があるワケ

https://urbanlife.tokyo/post/55115/

 

【三越について】

1914年に本店を新築するまで、仮店舗で営業していたらしい。そんなわけで仮店舗から四目屋までのルートについて調べることになったけど、仮店舗の場所がいまいち分からなかった。本店から遠くない場所だと思うんだけど

【鉄道について】

1909年以前の東京市では3社の鉄道会社が走っていた。

1909年に3社が合併して東京鉄道となる。

19118に東京市が買収し、東京市電の誕生。

1943年に東京都制施行により東京都電へ。その後、1972年までに都電荒川線以外は廃線となっている。

※今回のお話に出てくる路面電車は東京市電ではなく、東京鉄道。

【路線について】

現在の三越最寄駅は三越前駅だが、当然1911年に三越前駅はない。

wikiで当時の路線と駅名を調べる。

②現在の三越の場所を元に、上記で調べた路線と駅名を鉄道歴史地図に入力する。

③鉄道歴史地図で出てきた路線図と駅の開業年を調べる。

④上記と並行して四目屋跡地の住所を元に、1911年当時には開業済み且つ四目屋跡地まで歩いて行けそうな駅を2つ絞り込む。

(室町線浅草橋駅・両国橋線両国駅)

⑤google mapと鉄道歴史地図を睨めっこした結果、室町線室町三丁目駅から浅草橋駅に設定した。

 

当初は🔞ネタ書くだけだったのに、一体何してるんだろう?

 

6/24四目屋跡地に行ってみた!

ちょうど会社でバーチャル東海道53次ウォークラリーに参加してたので、歩数稼ぎも兼ねて歩いてみようと思い立った。

【今回ウォーキングで使用したもの】

google map

・東京地層地図アプリ(GPS付き)

・鉄道歴史地図

文明の機器〜🥺

 

実際に歩いてみた!

今回のウォーキングルート

(約2キロ・通常30分くらい)

参照元: google map(赤の⚪︎印が四目屋跡地周辺)

室町三丁目の交差点(現在)

 

室町線の面影はないので合ってるか分からないけど、ここからスタート。

江戸通りをひたすら道なりに進む🚶‍♀️

鉄道歴史地図によると、1911年当時は室町線本町三丁目駅・小伝馬町駅・馬喰町駅があったらしい。歩いてみても線路跡はないので面影を探すことは出来ないけど、現在は都バス・JR総武本線・地下鉄の停留所・駅名として残っている。

しばらくすると靖国通りに出た!右に曲がると両国広小路の石碑が見えて来る。

上 東京地層地図 明治末期の地形図(1906-09)参照

下 両国広小路碑(現在の中央区東日本橋側)

石碑の詳細

当時の広小路の中心は、両国橋から南側らしい。

両国広小路の歴史は明暦の大火(1657年)まで遡るみたい。元々は火除け地として設置されたので常設の建物は作られなかったが仮設の見世物小屋が立ち並ぶようになり、江戸時代から明治初期にかけて歓楽街として繁盛した歴史がある。

 

当時の浅草橋駅を確認したくて、浅草橋上から靖国通り側を撮影。

東京地層地図によると、この辺り(GPS付近)に室町線浅草橋駅があっただろうと思われる。(※私が勝手にそう思ってるだけ)

 

四目屋の近くまで到着したので、せっかくだから周辺を散策することに😊

上 東京地層地図 文明開化期の地形図(1876-84)参照

下 東京地層地図 明治末期の地形図(1906-09)参照

 

【両国橋の位置】

文明開化期と明治末期を比較すると、隅田川下流上流に建て替えられたことが分かる。

【薬研堀の埋め立て】

文明開化期と明治末期を比較すると、GPS付近にある薬研堀が埋め立てられていることが分かる。

かつて薬研堀があった周辺は中学校になっている。

かつて薬研堀に架けられていた元柳橋のモニュメント。

中央区側から撮影した両国橋(現在)

うっすら見えるのがスカイツリー(墨田区側)

 

日影ないし湿度も高いし日傘差しても暑い🥵四目屋跡地を目指す前にひとまず薬研堀不動尊へ。

薬研堀不動尊(現在)

 

東京地層地図 明治末期の地形図(1906-09)参照

GPSが不動尊の場所

いよいよ、不動尊を挟んだ向かい側へ

上 東京地層地図 明治末期の地形図(1906-09)参照

下 四目屋跡地(現在)

 

この周辺に四目屋があったと思われる。当時を偲ぶものや石碑は何にも残っておらず、静かな場所だった。

 

ウォーキング終了

日本橋の室町三丁目からスタート両国広小路・両国橋周辺も散策したので四目屋跡地到着まで1時間半弱かかった!

🔞夢妄想を題材にして当時のルートを特定し始め、まさか日本橋エリアの歴史や都電の成り立ちまで調べたり、実際に現地まで歩いてみるとは思わなかった。

 

ここまで全てが夢妄想を原動力に行動しててちょっとコワイ何やってんだろ

まあ、楽しかったのでヨシ!🙆‍♀️

余談

今回のお話に出てきた四目屋は検事局から隠れるように営業しており、二階で商売中という設定。

これは京都にあった【京四目屋】から拝借。(大正時代まで営業していたらしい)

1909年に京四目屋は検事局に検挙されているので、きっと両国の四目屋もひっそりと営業していたのではないか?と思ったから。

 

参照元:江戸から大正へ続いたアダルトショップ「四ツ目屋」ってなに?

https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/1363

 

1872年に明治政府は東京府に違式いしきかい 違条例を布達。

この条例は立ち小便・刺青・裸体や肌の露出禁止など、主に身体に関わる規制が多い。外国人の目を意識したものと思われることから、新政府にとって江戸時代の価値観は近代化推進を妨げると思ったのかもしれない。

その条例の中で春画及び其類の諸器具物を販売する者も含まれており、四目屋は該当していた。

 

参照元:明治新政府が大真面目に規制した驚くべき⚪︎⚪︎の数

https://diamond.jp/articles/-/116643